ウェールズを感じる
――ウェールズから響く音楽4. ウェールズ音楽のキーワード――



トピックス
古代ケルトの音楽 アイリッシュ・ケルトのキリスト教 ウェールズ語と英語 ウェールズの南と北 メソジスト 炭鉱夫と農夫 賛美歌と合唱 男声合唱団 反骨精神 ヒラエス 黒い嗤い ウェールズ民謡 短調 ウェルッシュ・ハープ ウェールズ音楽の流れ(概略) なぜ歌?


■古代ケルトの音楽
 ケルトには英語でバード(Bard)と呼ばれる詩人がいた。彼らはウェールズ語ではバルズ(Bardd)と呼ばれる。

 ギリシャの歴史学者ディオドロス・シクルス(Diodorus Siculs)によって紀元1世紀に書かれた本によれば、彼らバルズは称賛や皮肉を歌にして、自らリラに似た楽器を弾きながら歌ったと言う。
 この形式は時代を経ても変らなかった。変ったと言えば、リラに似た楽器がハープになったことだろうか。
 6世紀のバルズ、タリエシン(Taliesin)が残し、13世紀になって書き留められた7つの詩には、その様子が詠われている。そのひとつ「アーゴエット・スゥエイヴェインの戦い」(‘The Battle of Argoet Llwyfein’)(サー・ジョン・モリス=ジョーンズの英訳による)には、「吟遊楽人は何年もの間勝利の歌を歌うだろう」(“the minstrel shall sing/ For many a year the song of their victory’)とある。

 ほかに、トランペットに似たあまり出来のよくない楽器があったらしい。しかし、これは演奏目的ではなく、戦争時に相手の恐怖心を煽る目的で使われたようだ。したがって、この楽器はバルズではなく、戦士が好んで使ったのだ。興味深いのは、戦争が終った後の戦士たちの姿である。戦いが終った後、戦士たちは血で汚れた武器・武具を召使に運ばせながら、勝利の賛歌(hymn of victory)を歌ったと言われている。この古い時代から、ウェールズの歌好きは育まれていたようである。

 このように、ウェールズの歌好きは根が深い。その原点は、ケルトの時代まで遡ることができるのだ。なおJ.E.ロイド(J.E.Lloyd)教授によれば、“cerddor”(音楽家または芸術家)“crwth”(群集)“telyn”(ハープ)“cathl”(歌)などの音楽関連のウェールズ語は、その語源をケルト語に持っているという。

 バルズについて詳しくは、「ウェールズとケルト?――以外に身近なケルトの国・ウェールズに渡ったケルト人――」の「古代ケルトのウェールズ社会」および「バルズ:その後」を参照のこと。

■アイリッシュ・ケルトのキリスト教
 5世紀以降のキリスト教布教に関して、興味深いことがある。ウェールズでは、アイリッシュ・ケルトのキリスト教が、ローマン・カソリックに先んじて布教された。アウグスティヌス(?-604)がローマよりブリテン島に布教に訪れた際には、既にアイリッシュ・ケルトのキリスト教がウェールズでは広まり、根づいていたのである。このため、ウェールズの地名に、現在でも教会を意味する“llan”が多く残っていることは、「ウェールズを知る――ウェールズ情報全般――」にあるとおりである。ここで考えたいのは、当時のキリスト教音楽とその影響だ。

 現在、グレゴリオ聖歌を除けば、この当時の教会音楽はほとんど残っていない。しかし、グレゴリオ聖歌でキリスト教の教義を民衆に布教したように、ケルトのキリスト教の布教が歌の力を借りたことは想像に容易い。この時、グレゴリオ聖歌が単声(monody;音楽用語で和声をもたない、単一のメロディによる音楽のこと)だったように、彼らの歌も和声はもたなかったと思われる。
 しかしながら、この時代に単旋律を合唱することで音楽的感覚を育てなければ、後に複雑なハーモニーで一般大衆が合唱することは困難だろうと、F.J.クロウウェスト(F.J.Crowest)は推測する。事実、他民族が単声で合唱していた12世紀には、ウェールズのジェラルド(Gerald of Wales)が、ウェールズの民が既に多旋律(ポリフォニー)で合唱していたことを記録している。
 この下地なしには、後の19世紀に起ったメソジストによる宗教復興運動に連動した賛美歌合唱熱は、生まれなかったのではないだろうか。

■ウェールズ語と英語
 ウェールズ語は詩的な言葉といわれる。事実、その豊かな響きをいかした、頭韻による独自の韻律法(カンガネッズ)があり、高く評価されている。

 しかしウェールズ語は、イングランドによる1536年の統合時以来、公の場での使用が禁じられる。だがその2年前に設立された英国国教会の布教を急ぐイングランドは、教会内でのみウェールズ語の使用を許す。その後、教会は教育、出版、賛美歌の合唱などを通じて、ウェールズ語を守るのに貢献する。そして後のメソジスト宗教改革に連動した、ウェールズ人のウェールズ語賛美歌合唱熱が、ウェールズ語を守る役割を果たした。

 しかしながら、ウェールズ語の使用者数は、ウェールズ語禁止以来、減少傾向にある。18世紀までの長い時間をかけて、徐々にではあったが、ウェールズはイングランドの文化流入により、イングランド化されてきた。それを加速したのが、産業革命である。

 この時、南ウェールズに炭鉱が開発され、イングランド人が大量に移住してきた。この移住のため、ウェールズの全人口はわずか100年程で産業革命以前の人口の4倍強となった。この大量移住などの影響により、ウェールズ語の使用者は19世紀中頃より、急速に減少する。ウェールズ人の中でも、ウェールズ語が不要と考える者も現れ、悪名高き「ウェールズ語禁止」運動(Welsh Not)が庶民の間から起こりもした。

 現在では、英語の使用者はウェールズ全人口の100パーセント近い数字を出すが、逆にウェールズ語の使用者は20パーセント程度に留まる。1981年の調査では、ウェールズ語のみの使用者は全人口の0.8パーセントとなっている。この数字が語るのは、ウェールズ語の使用者のほぼ全員が英語とウェールズ語のバイリンガルだという事実である。

 しかしながら、19世紀後半より、ウェールズ語はウェールズへの愛国心の象徴として認識されるようになった。そのため、歌の世界でもウェールズ語で歌うことは、ウェールズらしさを強調することになる。特に、ウェールズの王国としての復活を強く願い、政治的活動も行うダヴィズ・イワンらは、この図式を自ら押し進めた。また、彼が積極的に出入りしていたウェールズ党(Plaid Cymru;現在、ダヴィズは党首を務める)はダヴィズの活動を後援、数多くのフォークフェスティヴァルを開催する。

 ウェールズ語で歌うことは、その活動をウェールズ国内に限定するばかりか、しばし愛国主義と強く関連付けられた。そのため政治的意図が皆無のアーティストでさえ、ウェールズ語で歌ったがためにダヴィズらの仲間と世間から見做されることもあった。

 逆に、英語で歌うことは、活動の場を、ウェールズ国内に限定せず、海外といった広い世界を視野に入れたものとした。

 しかし、90年代に入ってから、この図式に変化が訪れる。変化をもたらしたのは、英語でウェールズ語を歌う若者の出現である。その多くは60年代後半に生まれ、80年代に青春を過ごした。マニック・ストリート・プリーチャーズを突破口とし、彼らにカタトニアスパーフューリー・アニマルズステレオフォニックスらが続いた。彼らの共通点は、英語でウェールズを歌うことだ。マニックスのように英語で育ったために、英語以外の選択肢がなかったものもいる。しかしカタトニアのケリー・マシューズやスーパー・ファーリー・アニマルズのように、バイリンガルでありながら英語を表現の手段として選んだものもいる。

 だが同時にこの80年代から90年代は、ウェールズ語ポップスにも変化をもたらした。アンリーヴンやダトブラギらウェールズ語ニューウェーブが現れ、そしてインディーズ・レコードのレーベルを開くことで、若いウェールズ語アーティストがこれまで以上に世に出てきやすくなった。

 それ以前はウェールズ語の音楽をリリースしようと思うとダヴィズが率いるサイン・レーベルしかなく、言い換えればダヴィズら幹部の目に適わなければデビューもままならなかった。だが新しいウェールズ語音楽のレーベルが出来ることで、より柔軟なウェールズ語音楽をもった若者が世に出、更にウェールズ語への世間の偏見を変えていく。

 特にゴーキーズ・ザイゴティック・マンキは英語とウェールズ語の両方を分け隔てなく自らの歌詞に詠みこんだ。彼らのレコード(CD)は世界規模でリリースされ、ウェールズ人ばかりかイングランド人を含む外国人にまでウェールズ語の良さを伝えることとなった。またスーパー・ファーリー・アニマルズは全編ウェールズ語のアルバム『ムーング』(Mwng)(2000年)を自らのレーベルからリリース。これはイギリスのチャートで最高11位を記録し、ウェールズ語ポップスで最も売れたアルバムとなった。

 この事実が良かれ悪しかれ、ウェールズを国内外に幅広く伝えたことは揺るぎない事実だ。彼らの歌はウェールズの現状ばかりか、長い間の圧制によって育まれてきたウェールズの反骨精神までも海外に伝えた。また、同時に、既に全人口の8割以上を占めるようになった英語を第1言語とするウェールズ人の、ウェールズ人としての意識を高めることとなった。


■ウェールズの南と北
 18世紀後半、産業革命による南部丘陵地帯(Valleys)の炭鉱開発により、イングランド人をはじめとする英語話者の大量移住をもたらした南ウェールズは、早くから近代化/工業化された。炭鉱経営者の多くがイングランド人だったため、ウェールズ語話者の炭鉱夫らはバイリンガル化していった。

 炭鉱から町、そして港へと鉄や石炭を運ぶために、早くのうちから鉄道が敷かれた。当時、そこから大都市ロンドンへの運搬は陸路よりも海路が好まれ、そのためカーディフやスウオンジーの港は飛躍的に成長を遂げる。同時にその港は、イングランド、特にロンドンからの文化流入のための玄関となった。

 これら若い生活居住区では、工業化は都市化であり、それは同時に古き因習から解き放たれることをモットーとした。新しいものこそが都市化の真骨頂であり、古き伝統や因習は唾棄される。その古き伝統の中には民謡やウェールズ語も含まれた。

 時代が下り、19世紀後半にもなると英語化の勢いは止められなくなる(「ウェールズを知る――ウェールズ語参照」)。教育現場におけるウェールズ語禁止、炭鉱の増加、そして英語単一話者(モノグロット)の台頭は、この地域のみならずウェールズ全体の言語状況に決定的な打撃を与えた。

 これらの要因から、英語を日常的に喋る人がその住人の大半を占め、ここで生まれる音楽の多くは英語で歌われる。現在、南ウェールズでは、ニューポートやカーディフを中心として、ポピュラー・ミュージック(及びそのシーン)が花開いている。映画『ヒューマン・トラフィック』でも描かれたが、クラブ・ミュージック(ドラムン・ベースやヒップ・ホップなど)が盛んな場所でもある。
 北ウェールズは、ウェールズの文化と言葉、そして、手つかずの自然が数多く残る場所である。場所によっては、ウェールズ語の使用者は7割を越すところもある。そのため、アンリーヴンテュスティオンなど、北ウェールズ出身のミュージシャンはウェールズ性を強調することが多い。


■ウェールズ語協会とフォーク・フェスティヴァル
 1962年に設立されたウェールズ語協会(Cymdeithas yr Iaith / Welsh Language Society)に、ダヴィズ・イワンは学生の頃から加わった。協会の中で勢力を拡大し、更にBBCで若者向けのウェールズ語音楽番組の司会などを担当するようになったダヴィズは、協会のバック・アップの下、積極的にウェールズ語のフォーク・フェスティヴァルを開催した。目的はもちろん、ウェールズ語の公用語化とウェールズの独立である。このため庶民の間からは、ウェールズ語のフォーク・ソング=政治運動という図式が出来上がる。結果、ウェールズ語のフォーク・ソングやウェールズ民謡が、ウェールズ人の間でも敬遠されるようになった。


■炭鉱夫と農夫
 ともに肉体労働者だが、炭鉱夫(左写真)は産業革命以降のウェールズの民の象徴であり、農夫はそれ以前の、即ち、自然と密接に暮らした、ウェールズらしいウェールズ人の象徴である。

 炭鉱夫というと、南部やボーダー・ライン(イングランドとウェールズの国境地帯)のウェールズのイメージが強く、そのイメージは賛美歌の合唱と結びつく。もともとこの賛美歌の合唱は、水質悪化のため水よりもビールを好んで飲んでいた南ウェールズの炭鉱夫らに、メソジストの牧師が彼らの飲酒癖に代わるものとして、勧めたことに端を発する。大酒飲みで歌好きというステレオタイプ的なウェールズ人のイメージは、ここから来る。農夫は、痩せたウェールズの丘を耕すイメージがある。また、古代ウェールズを鉄器を用いて開墾していった、ウェールズ人の祖先にあたる古代ケルト人につながるイメージも持つ。



■メソジスト
 創始者は英国国教会の司教だったジョン・ウェスレー(1703-91)で、当初は英国国教会の中で活動していた。しかし、時に英国国教会の指定した祈祷書を使わず、また、個人的な宗教体験と信仰覚醒を重要視したこともあり、英国国教会からは教会の使用を禁じられる。そのため彼らは辻説法で、信者を増やしていった。ウェスレーがウェールズで初めて説教をしたのは、1736年10月15日の16:00だった。南ウェールズのチェプストー(Chepstow)から北へ3マイルほど向った、デヴォーデン(Devauden)でのことであった。ウェスレーの死後、1811年にメソジストは英国国教会から独立した。
 主に中流階級を布教の対象とした英国国教会に対して、メソジストの指導者達は、炭鉱夫をはじめとした労働者ら社会の下層階級に熱心に布教した。彼らの説教は、時に市場や街頭、そして教会の庭など屋外で行われた。そのスタイルは英国国教会のものとは異なり、足を踏み鳴らし、時に踊り、また、昂揚した牧師が歌いだすという、劇的かつ熱狂的なものだった。この説教が民衆に受け入れられ、瞬く間にメソジストは南ウェールズを中心としてウェールズ中に広まるようになる。
 メソジストは、しかしながら、信者に禁欲的に生活することを求めた。そのため、飲酒や娯楽が禁止され、18世紀以前のウェールズ民謡が民衆の間から失われることとなった。メソジストが飲酒の代りとして勧めたのが、賛美歌の合唱である。


■賛美歌と合唱
 ウェールズで賛美歌の合唱を定着させたのは、メソジストだった。メソジストが賛美歌の合唱に、会衆の協調性と、集団による信仰覚醒を求めたためである。
 賛美歌の普及を助ける役割を果たしたのは、1859年のメソジスト宗教改革と時を同じくした五線譜の紹介である。当時、五線譜は唯一の音楽記録媒体だったわけだが、その五線譜の読み方が、教会の日曜学校を通じて民衆の間に広められた。そのことで新しい賛美歌の紹介が容易になり、結果、庶民の間から新曲の需要が増すこととなった。
 また、急速な近代化が進む南ウェールズでは、衛生環境の悪化が進み、飲み水の確保が困難だった。水の代りとしてエール(ビール)を日常的に飲む者が出始め、このことが大衆の間での飲酒の習慣を促進した。この飲酒に変わる習慣として、メソジストたちは賛美歌の合唱を推奨したとも言われている。



■男声合唱団
 メソジストによって広められた、賛美歌の合唱を特に好んだのは、炭鉱夫や農夫といった肉体労働者だった。牧師の熱狂的な説教のあとに行われる賛美歌の合唱を、彼らは特に好んだ。各教会で時間をずらして行われる賛美歌の合唱を求め、教会から教会へと一日のうちに何軒も渡り歩く者も少なくなかったという。

 肉体労働で鍛えぬかれた体をいかして彼らが歌うのは、しかしながら、神を称える歌ばかりではなかった。公的な場として唯一ウェールズ語の使用を許された教会という場をいかし、彼らは、ウェールズ語の歌詞を持つ伝承歌を、合唱曲として歌った。また一方で、次々と書かれることとなった賛美歌には、ウェールズの悲しい歴史や、敵イングランドに対して反旗を振りかざす父祖たちの勇敢な姿をも、詠みこまれた。そしてこの合唱の習慣は、親から子へと、そして、そのまた子へと、受け継がれていった。同時に、反骨精神逞しいウェールズ民族の精神や、自分たちの言葉であるウェールズ語を、彼らは子々孫々受け継いでいったのだ。

 この合唱は、人に知られるところとなり、ウェールズは「歌の国」とまで呼ばれるようになった。また国をあげて行われるアイステズヴォッドでは、合唱コンクールは欠かせないものとなった。1872年にロンドンのクリスタル・パレスで行われた合唱コンクールでは、456人のウェールズ人が声を揃え合唱し、1位に輝いている。
 現在でも、合唱の習慣は残り、初等教育や教会の礼拝では欠かせないものとなっている。そればかりか、サッカーやフットボールの大会では、必ず、スタジアムで合唱が起こるなど、ウェールズ人と合唱は切っても切り離せないものとなっている。毎年開催されるアイステズヴォッドの最後には、そこに集った会衆全員による国歌の合唱なども行われている。その数は、数千人にも及ぶ。


■反骨精神
 ウェールズ人気質を代表するもののひとつ。どれだけ支配者から虐げられても、決して民族の誇りを失ったり、諦めたりしない感情。ウェールズ人魂の核にある、と言っても、過言ではない。この精神は賛美歌にも詠みこまれ、また、その賛美歌を合唱することで、ウェールズ人はこの精神を親から子へ、子からまたその子へと、代々受け継いでいった。この精神はステレオフォニックス、マニック・ストリート・プリーチャーズ、カタトニア、ダヴィズ・イワンらの歌に顕著である。
 また、この反骨精神は、同時に、自らをも嗤い飛ばす精神的なタフさをウェールズ人の中に育んできた。



■ヒラエス
 ヒラエス(hiraeth)とは、「憧れ」や「憧憬」と言った意味のウェールズ語。反骨精神とともに、ウェールズ人気質を代表する感情である。ウェールズ人のヒラエスの先は、故国であり、故郷である、ウェールズ王国へと向けられる。同名の伝承歌も存在し、ブリン・ターフェルが録音している。また、ステレオフォニックスの『ユー・ガッタ・ゴー・ゼア・トゥ・カム・バック』の歌詞には、この感情が見られるように思えるのだが、いかがだろうか。



■黒い嗤い
 虐げられた民族ほど、痛烈な皮肉に彩られた、「黒い」嗤いを持つ。自分たちが置かれた、苛酷な状況を嘆いてばかりいては、精神のバランスを保つことが困難だからだ。
 ウェールズも例外ではない。ウェールズの人々は、時に、イングランドの圧政下の下で苦しむ自分たちのことすら嗤う。しばしそのユーモアは、痛烈な皮肉と絶望的な感情が混ざり、黒い輝きを放つ。この黒い嗤いから生まれたのが、スーパー・フューリー・アニマルズなどに見られる、ウェールズ特有の捻れたポップスである。その音楽は、表面上はおだやかだ。しかし解きほぐそうとすると、様々な感情や音楽形式が混ざっており、一筋縄では行かないことが知れる。



■ウェールズ民謡
 メソジストの影響により、18世紀以前の民謡はほとんどが失われてしまったのが、現状である。19世紀終盤より、聞き取りによる調査と採譜が行われているが、そのどれもが口伝のため、以前の正確な形が残っていないというのが、正直なところだろう。現在では、これらをもとにウェールズ民謡を掘り起しているアーティストもいる。
 同じケルトの国であり、イングランドの支配下におかれたアイルランドが、アイリッシュ・ダンスに民族性の保守を託したのに対して、ウェールズでは賛美歌の合唱に民族性の保守を託したことも、民謡の喪失を促したのではないか。
 ウェールズの民謡には、5音階のものが多い。特に多いのは、7つの音から構成される1オクターブの音階から、6番目と7番目の音を欠いた音階である。つまり、ハ短調ならば、ド−レ−♭ミ−ファ−ソで構成される音階である。もちろん、アイルランドの民謡と同じく、ウェールズ民謡の大半は7つの音からなる音階(一般的に、長調や短調と呼ばれる音階)から作曲されている。
 また、俗に3もしくは6拍子が多いと言われるが、必ずしも、そうとは言い切れない。


■短調
 ウェールズの伝承歌には短調(minor chord)が多いと言われる。確かに「初恋」などのように、5音階の短調(「ウェールズ民謡」参照)で書かれたメランコリックな曲が残っている。これらのメランコリックな曲が男声合唱団によって歌われる時は、特に男性特有の唸るような低音から、悲しみが増幅される。
 興味深いのが、このメランコリアが現在のバンドにも受け継がれていることだ。スーパー・フーリー・アニマルズはいざ知らず、マニック・ストリート・プリーチャーズの、特に彼らがウェールズ人だと意識して以降の作品には、メランコリアが深い。
 これはヒラエスと呼ばれるウェールズ人特有の感情から生まれるのだろう。興味深いのは、若いマニックスの二人の発言である。ジェームス・ディーン・ブラッドフィールドは「メランコリアは丘から、大地から来る」と語り、ニッキー・ワイアーは雨の多いウェールズの天候のせいだとする。いずれにせよ、メランコリックな感情はウェールズの大地に根ざしたものだということだ。

     註:Simon Price, Everything (A Book About Manic Street Preachers), (Virgin, 1999), p. 23


■ウェルッシュ・ハープ
 ウェルッシュ・ハープは、弦が3列並びになっているウェールズ独自の楽器である。古くからウェールズにはハープが伝わっているが、これは現在のウェルッシュ・ハープとは区別して考えられる。ウェルッシュ・ハープ以前のハープは弦の本数も少なく、調弦方法によって響きも変っていたようだ(テリンの項目参照)。

 ウェルッシュ・ハープは16世紀にイタリアで作られたハープが海を渡り、ウェールズに伝えられ、それが発展したものである。ウェルッシュ・ハープは半音間隔で弦が張られている。そのためピアノのように、弦をはじくだけで半音を演奏することができる。だがその分、弦の間隔が狭く、現代のハープに慣れた奏者でも慣れを必要とする。アル・ログのロバーツ兄弟は、ウェルッシュ・ハープの復活に貢献した。シアン・ジェームスが、その演奏で使用している。


未来のハープ奏者
(向かいの子供は顔に赤龍のペインティングをしている)
(2007年アイステズヴォッドにて撮影;クリックで拡大)


■テリン(中世およびそれ以前のハープ)
 表題は正確ではないかもしれない。ウェールズ語でハープのことをテリン(telyn)という。ここでは特に、ウェルッシュ・ハープと区別し、ウェルッシュ・ハープ以前のハープを特にこう呼ぶ。

 テリンは腕でもって構えられるほどの大きさだった。弦には馬の尻尾を撚ったものが使われたと言われ、アイルランドのハープよりも音程が低かった。

 テリン/ハープを使ったウェールズの音楽で、独創的なものがケルズ・ダント(Cerdd Dant)と呼ばれる音楽の形式である。これは歌とハープの伴奏の音楽だ。ハープがカインク(cainc)と呼ばれるメロディ(伝承歌や伝統的な曲のメロディを用いる場合が多い)を弾き、アロー(alaw)と呼ばれる歌がこの対旋律を奏でる。これらは厳格な規則に則って奏でられるので、現代音楽のように不協和音や拍子のズレ(内在律など)はない。また、ケルズ・ダントは言葉を大切にした音楽で、その言葉はウェールズ特有の詩法(Cynghanedd)に従って編まれることが多い。一説によると、バルズがテリンを片手に物語りを吟じたやり方から、この音楽は生まれたという。


 なお13−14世紀のウェールズの法律には、3つの法定ハープが明記されている。それによると法定ハープは、王のテリン(telyn e brenhyn)、ペンケルズ(バルズの長)のテリン(thelyn penkerd)、そして貴族のテリン(thelyn gurda)に分類される。王のテリンとペンケルズのテリンは、貴族のテリンの2倍もの価値があったという。

■ウェールズ大衆音楽の流れ(概略)
 ここまでのことをまとめると、ウェールズ大衆音楽(ポピュラー・ミュージック)には、次のような流れがあることがわかる。

  (1) ウェールズ民謡(18世紀以前)・・・ メソジストの影響で失われる。速いテンポのダンス音楽などもあったと伝えられている。
  (2) 賛美歌(18-19世紀)・・・ 炭鉱夫ら無骨な男たちを中心に大流行する。20世紀に入って、ウェールズ人の宗教熱が冷めたところで、賛美歌の合唱は日常的な楽しみから、伝統となる。
  (3) ウェールズ語のフォーク・ソング(1960年代-)・・・ 民謡ではなく、当時、ニュー・ウェイブと呼ばれた音楽のこと。アメリカ人の多くはアコースティック・ギターを片手に、ヴェトナム戦争への反戦歌や人種問題など、政治的な内容を歌った。ウェールズでは、言葉やウェールズ独立など自国の問題を扱うものが多かった。ダヴィズ・イワンや、サイケデリック・フォークのメイック・スティーヴンスらなど。
  (4)英語のポップス(1960年代-80年代)・・・ 英語で歌うことは、ウェールズの外の世界を歌うことを意味した。トム・ジョーンズメアリー・ホプキンジョン・ケイルなど。
  (5) 細分化(1980年代)・・・ ラップ、パンク、ニューウェイブなどの音楽でも、(3)(4)と同じ動きをとる。即ち、言葉の選択によって、ウェールズ内のことを歌うのか、より広い世界を歌うのか、に分かれる。80年代後半に現れたワールド・ミュージックの一般への浸透化により、ウェールズ語の響きが英語圏やヨーロッパなどでも受け入れられるようになる。スルイブル・スライソグアンリーヴンなど。
  (6) ウェールズ民謡の発掘(1990年代-)・・・ 古くは、アル・ログによって1960年代から行われてきた。当初はアフリカの音楽に注目が集まったワールド・ミュージックが、ヨーロッパの民族音楽(特にアイルランドのケルト音楽)に注目が集まることで、ウェールズ民謡も注目された。シアン・ジェームスファーン・ヒルなど。
  (7) 英語で歌うウェールズ(1990年代-)・・・ 英語でウェールズのことを歌う、新しいバンドの出現。カーディフやニューポートから現れた、マニック・ストリート・プリーチャーズカタトニアスーパー・フューリー・アニマルズステレオフォニックスなど。



■なぜ歌?
 「なぜ歌?」――そう、ウェールズの音楽を聴く度に、私はいつも思ってしまう。確かにウェールズは、メソジストの影響により生まれた合唱好きが世に知られるようになり、「歌の国」との愛称で親しまれている。それ以前の12世紀に、既に「ウェールズのジェラルド氏」(Gerald of Wales)が、ウェールズの人々が互いに調和を保って歌うことを愛し、また、天性の才能を持っていると記している。
 しかし、だからといって、何もここから生まれるミュージシャンのほとんどが歌を採り上げなくても良いのでは?と、私は常々思うのだ。事実、当サイトで紹介しているポピュラー・ミュージックのアーティストは、そのスタイルは違えど、誰もが歌を厭わない。他の国ではインスト曲(器楽曲)が大半を占める、ハウスやブレイク・ビーツ(ドラムン・ベース)のユニットにも、ウェールズでは歌が欠かせない。カール・ジェンキンスは例外だと思っていたら、90年代後半に現れた彼のプロジェクトであるアディエマスは、歌中心の音楽だ。
 なぜだ? 疑問が残る。なぜここまで歌にこだわるのか? 三つ子の魂百までも、ということなのだろうか。独自の韻律法をもった詩的な言葉であるウェールズ語が、民衆を歌に向わせるのか。この解明は、これからの研究の課題だ。これは憶測にしか過ぎないが、反骨精神に象徴されるウェールズの民族魂を表現するには、声が最適なのかもしれない。その肉体に刻み込まれた苦汁の歴史を語るには、その肉体から振り絞られた声が最適のように思えるからだ。



ウェールズ?! カムリ!
文章:Yoshifum! Nagata
(c)&(p) 2004-2013: Yoshifum! Nagata




主要参考文献
The Green Guide: Wales, (Michelin Travel Publications, 2001)
EMYNAU CYMRU / The Hymns of Wales, edited by Gwynn Ap Gwilym and Ifor Ap Gwilym, (Y Llolfa, 1995)
Jones, J. Graham, The History of Wales, (University of Wales Press, 1990)
Johnston, Dafydd, The Literature of Wales, (University of Wales Press, 1994)
Morris, Jan, The Matter of Wales, (Oxford University Press, 1984)
Price, Simon, Everything (A Book About Manic Street Preachers), (Virgin, 1999) Trefor M. Owen, The Customs and Trditions of Wales, (University of Wales Press, 1991)
Williams, A. H., John Wesley in Wales, (Cardiff University of Wales Press, 1971)
Williams, W. S.Gwynn, Welsh National Music and Dance, (J. Curwen & Sons Ltd.,1932)




「ウェールズを感じる――ウェールズから響く音楽――」へ。
サイト・トップはこちら。